Wednesday, December 2, 2009

華族の誕生

明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家[1]・維新後に諸侯とされた家16家[2]の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である「終身華族」と、子孫も華族となる「永代華族」の二つが存在していた。

明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家[1]・維新後に諸侯とされた家16家[2]の合計427家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である「終身華族」と、子孫も華族となる「永代華族」の二つが存在していた。

また、この後も新たな華族が加えられた。特に大寺院の門跡であった公家の子弟が還俗し、新たな華族となった26家は奈良華族と総称される。また、大久保家(大久保利通の功)・木戸家(木戸孝允の功)[3]・広沢家(広沢真臣の功)[4]は、明治天皇の特旨によって華族に列せられているが、華族令以前に華族に昇進した元勲の家系はこの3家のみである。また、歴史上天皇家に対して忠節を尽くした人物の子孫[5]もこの時代に華族となっている。
華族の名称 [編集]

華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は『公卿』、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は『貴族』、岩倉具視は『勲家』・『名族』・『公族』・『卿家』等の案を持っていた。討議の結果『貴族』と『名族』が候補に残ったが、決定したのは『華族』であった。明治以前まで使用されていた『華族』は公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格『清華家』の別称であった。また平安時代末期までは家柄のよい者をさす言葉として用いられていた。
華族制度の整備 [編集]

11月20日、華族(元武家)は東京に住居することが定められた。ただし地方官として赴任のものはこの限りでなかった。また同月、華族(元堂上)ならびに旧官人の禄制が定められ、旧官人らは士族、卒とし、華族以下すべて地方官の貫属とする旨布告された。

明治4年(1871年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ち、その模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の貫属となった。7月14日には廃藩置県が行われ、知藩事としての地位も失った。

明治7年(1874年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。また、明治10年(1877年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは、自らも公家華族である右大臣岩倉具視であった。

明治9年(1876年)全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公卿の区別無く系図上の血縁ごとに76の『類』として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。明治11年にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。

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